虚実混交のフン・セン半生記?-『Strongman:The Extraordinary Life of Hun Sen』(4) |
ベトナム軍に捕えられ、収容所へと送られたフン・セン。マラリアに感染し、再び同じ尋問を繰り返され、一度は精神的にも限界に近づきますが、やがて供述に嘘がないことが理解され、ベトナム軍からの信頼を勝ち取ります。
フン・センのカンボジア脱出から約3か月後の1977年9月、ポル・ポトらクメール・ルージュ政権の幹部は北京を訪問。中国の共産党政権との結びつきを強めます。
一方、フン・センはポル・ポトの北京訪問とまさに同じ日にベトナム軍の総参謀長と直接会う機会を与えられ、クメール・ルージュ政権打倒のための支援を得ようと、5つの要請をします:
①ベトナム側に逃げてくるカンボジア人住民を送還せず、難民として受け入れること。
②粛清から逃れてきたカンボジア兵の政治的亡命を認めること。
③国境付近に保護区域を設け、難民から反乱軍の兵力を募ることを認めること。
④反乱軍に武器や装備、資金を供与すること。
⑤クメール・ルージュとの戦闘時、反乱軍にベトナム領内での行動を認めること。
しかし、フン・セン自身の亡命は認められたものの、支援の要請は断られます。カンボジアの内政問題への干渉と見なされ、両国関係がさらに悪化することをベトナム政府が恐れたからです。
ところがその直後、情勢は思いがけずフン・センにとって有利な方向に展開します。ベトナムへの敵意を強めたポル・ポトがベトナム領に軍を送り込み、攻撃をしかけたのです。ベトナム政府は不干渉方針を転換し、フン・センを呼び寄せてカンボジアのどの拠点を攻撃するべきか、情報提供を求めました。
1977年12月、ベトナム軍はカンボジアとの南北にわたる国境から一斉に侵入し、クメール・ルージュ軍に反撃します。フン・センは「もしポル・ポトが(この時)ベトナムを攻撃しなかったら、我々がベトナムからクメール・ルージュ打倒の支援を得られることはなかっただろう」と振り返っています。
ただし、このときベトナム軍はクメール・ルージュをそれ以上追撃せず、撤退。フン・センは失望しますが、ベトナムは10万人以上のカンボジア人難民の流入を許したため、結果的に反乱のための兵力を集めることが可能となります。編成された部隊は合計28。ベトナム政府から資金支援や武器、訓練を与えられます。
対クメール・ルージュの「解放戦争」
1978年5月、カンボジアではコンポン・チャム州とクラチェ州に反乱のための解放区が作られ、現在、フン・センと並ぶ人民党政権の三羽ガラスであるヘン・サムリンとチア・シムがそのリーダーとなります。ベトナム政府は戦車を送り込んで二人をベトナム領内に迎え入れ、クメール・ルージュ打倒の方針を正式決定。フン・センを含むカンボジア「解放」勢力のリーダー達は軍事作戦を練り、1978年12月2日に「カンボジア救国民族統一戦線(KPNLF)」の形成を宣言します。
1978年12月25日、ベトナム軍はクメール・ルージュに対する総攻撃を開始。初めてメコン川を越えて攻め入り、コンポン・チャム州の州都を包囲します。当時のクメール・ルージュ軍の兵力は約7万人。その打倒のために投入されたベトナム軍の規模は約10万人(このうちKPNLFのカンボジア人兵が2万人)に達していたようです。
クメール・ルージュ攻撃の主役はあくまでベトナム軍でした。戦車も飛行機も持たず、その操縦の仕方すら知らないフン・センらKPNLFの部隊はベトナム軍とは行動を別にし、相手側の兵力が弱く攻略し易い地域への進撃を任されます。フン・センらは、ベトナムの軍事支援なしにクメール・ルージュ打倒を実現することは不可能であると認識していました。
ベトナム軍に国境の前線を破られると、クメール・ルージュ軍は一挙に後退し、わずか2週間後の1979年1月8日、プノンペンはあっけなくベトナム軍によって陥落。クメール・ルージュ軍はタイ国境付近のジャングルへと逃亡し、ポル・ポトによってプノンペンの王宮に幽閉されていたシアヌークは北京に亡命。ついにクメール・ルージュ政権は崩壊します。
KPNLFのリーダーでありクメール・ルージュ政権打倒の立役者であるフン・セン、チア・シム、ヘン・サムリン、ペン・ソバンの4名はプノンペンに入り、「カンボジア人民共和国」の樹立を宣言。ヘン・サムリンが国家元首に就任し、フン・センはわずか26歳で外相に任命されます。
カンボジアに取り残されていた妻のブン・ラニーはプノンペン陥落後もクメール・ルージュに従い逃亡生活を強いられていましたが、外相となったフン・センの命で捜索が行われ、行方が確認されます。一時はお互いに死んだものと信じていた夫妻は約2年ぶりに再会を果たすことになったわけです。
((5)へ続く)